鈴木傳明

研究ノート

海浜喜劇の流行と『海浜の女王』

日本映画において、海辺を舞台に若い男女の恋愛模様を描く「海浜喜劇」というジャンルは、『アマチュア倶楽部』(1920)によって誕生したとされる。原作者の谷崎潤一郎が、当時の日本で評判を呼んでいたマック・セネットの「Bathing Beauties」と呼ばれる水着美人が登場する喜劇映画に傾倒していたことはよく知られている。その谷崎が義妹の和嶋せい子に葉山三千子の芸名を与え、水着姿で主演させたことも有名な話である。鎌倉由比ヶ浜の海水浴場を舞台にしたこのスラップスティック・コメディは、アメリカ映画の模倣ではあったものの、海水浴という近代的レジャーのイメージを大衆に広める役割を果たしたといえる。水着をまとった葉山三千子の肉体美が観衆の関心を集めたように、「海浜喜劇」は水着姿の女優を見どころの一つとして定着していった。その背景には、女性の身体を表象するメディアとして当時の映画に寄せられた観客の期待があり、海辺という開放的な空間はそうした表象を可能にする舞台であった瀬崎圭二(2013)『海辺の恋と日本人 ひと夏の物語と近代』青弓社 。しかしながら、女性の肉体を興行上の魅力として利用する手法は、裏を返...
研究ノート

鈴木傳明と田中絹代は不仲だったのか

田中絹代が女優としての名声を高めはじめたのは1927年、『真珠夫人』(池田義信監督)に栗島すみ子の娘役で助演してからだ。松竹の大幹部であり大スターの栗島と共演することは当時の女優の目標になっていた。それまでの絹代はお世辞にも美人とはいえない容貌といかにも子供子供した年恰好(実際子供だった)が上層部の不評を買っていたが、五所平之助の強い要望により同年に『恥しい夢』で初主演を果たす。この初主演の話が舞い込んできたのは『真珠夫人』への出演が決まった直後で、絹代を主演に起用することに難色を示した城戸四郎を説き伏せた五所の奔走の結果であった。下町の芸妓を演じた絹代の初主演作は無事好評を博し、いよいよ『真珠夫人』がクランクインするが、ちょうど前後して清水宏との"試験結婚"と称した同棲生活が始まっている。この年の7月には大部屋から準幹部に昇進しており、絹代にとってはいい意味でも悪い意味でも記憶に残る年になっただろう。さらに翌年の1928年、絹代は『近代武者修業』(牛原虚彦監督)で鈴木傳明の相手役に抜擢される。傳明は絹代がデビューする5ヶ月前の1924年3月に日活へ入社し、早くも現代劇の二枚目スターと...